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【音楽】弦楽四重奏の歴史について(2)

 

こんばんは♪

レコールドムジークの講師です(*^^)🍗

 

今回の記事は、音楽の書籍のレビュー(続き)です。

前回はクセジュ文庫『弦楽四重奏』の、第1章を考察しました。

lecolenarita.hatenablog.com

その続きの章について、概要と、私自身の考察を書いてまいります。

 

第2章は、19世紀の内容。

第1章の構成と同じく、「序」と「本文」に分かれているのですが、既に「序」の時点で知りたいことがあまりにも多かったので、今回は第2章の「序」のみの考察といたします^^;

 

【第2章 序の概要】

以下、音楽における精神的な傾向、弦楽四重奏の立ち位置、物理的・地理的背景から19世紀がどのような時代であったのかを説明しています。

 

■19世紀の音楽における精神的な傾向について、以下の2つの相反する傾向が見られる

交響曲の発展:力強さに対するロマン的な憧れ

ヴィルトゥオーゾのたちの初期のリサイタル:独自の流儀でますます熱烈な自己主張を表明

 

これら①と②を融合させるものとして、「独奏コンチェルト」の形式が発展し、ヴァイオリンやピアノ、クラリネットなど、元々強い音(音量)を備えている楽器のテクニックの開発が目立つようになったということでした。

 

 

■作曲家が活躍するサロンについて

ベートーヴェンが出入りしていた王侯貴族のサロンが次第に封鎖されます。この文化的慣習はブルジョワのサロンへ引き継がれ、シューマンシューベルトブラームスら作曲家が活躍するとのことです。

//サロンの歴史も奥深いです。

 

■地理的な背景

これまでの作曲家の活動拠点は、主にフランス、ドイツ、イタリアであり、狭い「地理的境界」の内側に限定されていました。1870年代後半になると、これまで作曲家が出ていなかった様々な国から輩出されるようになります。例えばロシア、中央ヨーロッパなどです。作曲家で言うと、チャイコとか、リムスキーコルサコフボロディンドヴォルザークらが該当します。

 

弦楽四重奏曲の作曲家としては、

19世紀前半:ベートーヴェン

19世紀後半:ブラームス

 

上記2人を取り囲むように、

シューベルトメンデルスゾーンシューマン

 

更にシューベルトらを取り囲むように、

L.シュポーア、L.ケルビー二、G.オンスロフ

 

の作品が見られるとのことです。取り囲むというか、派生しているという感じなのでしょうかね。

序 の後の本文では、主にベートーヴェンシューベルトシューマンブラームスを個別に取り上げて、彼らの作品について解説しています。

 

 

【考察】

大きく分けて2つあります。

まず1つ目、

>19世紀の音楽における精神的な傾向について、以下の2つの相反する傾向が見られる

>①交響曲の発展:力強さに対するロマン的な憧れ

>②ヴィルトゥオーゾのたちの初期のリサイタル:独自の流儀でますます熱烈な自己主張を表明

 

について、(1)の記事の中で記述したように、”弦楽四重奏という形式は交響曲から一人ずつ奏者が抜き出された形である”、ということを踏まえると、

弦楽四重奏の形式は、上記の「2つの相反する傾向」を含んでいる、つまり、2つの要素を併せ持っているということがわかります。そのため、器楽の形式として、独奏コンチェルトの発展に限らず弦楽四重奏という形式の存続につながったのではないかと考えました。

 

まあこれは些細なことなのでいいとして、もうひとつ、とても重要なことです。

>地理的な背景

>これまでの作曲家の活動拠点は、主にフランス、ドイツ、イタリアであり、狭い「地理的境界」の内側に限定されていました。1870年代後半になると、これまで作曲家が出ていなかった様々な国から輩出されるようになります・・・

 

について、2つの疑問を持ちました。

①何故1870年代後半になると、狭い「地理的境界」の外側からも作曲家が排出されるようになったのか

民族主義とか言われているドヴォルザークらは、ちゃんとベートーヴェンの音楽を勉強して育っているが、音楽的な主要国(地理的境界の内側)であったドイツの音楽が周辺国に流入するきっかけは一体何だったのか

ということです。

よくある、ヨーロッパの歴史は複雑だから地理的な事情があったのではないか、とか、革命によって「民族意識」が高揚したから、という、なんとなく分かったような気にさせられる曖昧な理由ではとても腑に落ちないので、今回は「チェコ」という国に焦点を当てて調べてみました。

 

チェコ - Wikipedia

 

Wikipedia中の [ 古代~中世まで ] の項目の中で、以下の記述があります。

・・・ハンガリー王国ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年ボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。

 

この後は、

18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義民族主義の気運がチェコでも高まった。

 

ということで、肝心な19世紀前半の記述が見当たりませんでした。1618年のボヘミアの反乱以降、ずいぶん長い間属領になってしまっていたようです。ただ、ドイツ系の人たちに支配されていたためにドイツ音楽が自然に入ってきていたという可能性は少し考えられます。

 

続いて、チェコにおける音楽の歴史、及び教育的な背景について調べるため、以下のWikiを読みました。

チェコの音楽 - Wikipedia

 

以下 [ 古典派 ] 部分の抜粋

三十年戦争とこれに続くプロテスタント弾圧のために、数多くの音楽家が亡命した。その後も新教徒の頭脳流出は続き、・・・

 

一方、チェコ国内では、こうした才能の国外流出に加え、カール6世の治世後半から財政が悪化し、その後のオーストリア継承戦争がそれに拍車をかける形となって、社会全体が沈滞していた・・・プラハ音楽院院長であったフリードリヒ・ディオニュス・ヴェーバーベートーヴェン交響曲第3番を「全く未熟な作品」と評するなど、保守的な風潮が支配的であった。こうした風潮から、宗教的理由とは別に、自ら国外に活躍の場を求めた音楽家たちも多かった・・・

チェコでの音楽教育は実施されていたものの、音楽活動をしたかった人々にとっては厳しい境遇にあったと言えます。実際に調べてみると、古典派に活躍していた作曲家の中にも、実はチェコ出身の人も数多くいたということです。これは衝撃的・・・‼ ドイツやフランス、イタリアは、厳密に言うと、音楽が発展した場所としてだけでなく、自国で活動できない音楽家たちの活動拠点でもあったということも理解しました。

 

但し、地方では器楽の演奏が盛んに行われていたようです。文章を読むに、主にチェコの都市オロモウツが、かつて優秀な楽団を抱えていたことや、文化的な建造物や教会が多いということから、オロモウツに触発され、地方での器楽演奏や音楽教育が盛んに行われたという可能性はあります。ここでもドイツものを少しかじっていたとか、或いは地方独自の音楽が発展した可能性があります。

18世紀のチェコでは、都市部では指導的な音楽家が流出する一方で、農村部では民族主義あるいは国民主義音楽への下地が着実に形成されつつあった。

 

更に、肝心な18世紀後半~19世紀の内容を読んでみると、

チェコ民族主義への動きをもたらしたのはドイツ人の哲学者・神学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー (1744 - 1803)であった。彼はナショナリズムの思想をもたらしただけではなく、チェコ民謡の収集を行った。その成果が「古代の民謡」(1773/74年)、「民謡集」(1778/79年)、そして「歌に宿る民衆の声」(1807年)であった

 

☆以下ヘルダーについて

ja.wikipedia.org

 

この人絶対只者ではない・・・と思ったのと、チェコにおける民族意識の高揚については彼も一役買っているっぽかったので、ヘルダーについても調べてみることにしました。

基本的に哲学者なんだそうですが、中でも人類学とか、現代の言語学に通ずるような学問に精通していたということと、あとは各国の民謡を収集していたとのことです。民謡の収集はちょっと面白いと思いましたが、彼の興味の方向としてきちんと一貫しているように思われます。

ちなみにヘルダーが収集した民謡は今も『ヘルダー民謡集』として販売されているようです。図書館でも借りられます。

ヘルダー民謡集 « 大学出版部協会

チェコだけではなく、いろんな国を旅していたことがわかります。

 

ではなぜ、ヘルダーは属領となってしまっていたチェコに着目したのでしょうか。

まずは18世紀から19世紀におけるチェコの歴史的背景をもう少し具体的に調べていきます。

 

内藤(2015)*1によると

こうした状況(//ブログ主の補足:チェコが零落しており知識人が文化運動をする資金すら持てなかった)のもとで,実際にチェコの知識人たちによる文化運動に直接,資金を提供したのは,つまりこのチェコという地域を支配していたドイツ文化圏の中にいるドイツ系貴族たちであったことは驚愕にあたいするであろう。その理由として,ドイツ系貴族たちは,ヨーゼフ二世の改革によって自分たちがチェコにおいて掌握していた特権が次第に脅かされるようになり,それゆえ彼らは,おそらく自らの封建的特権を遵守するために,逆に,かつてチェコ王国だった地域の自立性を強調する必要に迫られたのである。こうして貴族らによる「愛郷主義」(チェコ王国は帝国に組み込まれているが,一定の独立性は維持しているとする)を推進していくことで,つまり具体的にはチェコ人知識人の文化運動に資金を提供することによって,彼らの役目は,まさにチェコ人に成り代わり,チェコ人独自の文化や歴史の存在をウィーンに向けて発信することとなったのである。・・・

参考:ヨーゼフ2世

//または世界史の教科書を読みましょう。

 

つまるところ、貴族らが特権を守るためという理由で、半ば運よく、じりじりと、チェコの文化的な運動が支持されるようになります。

ヘルダーに関する記述は以下(P.280抜粋)

ヘルダー自身によるスラヴ人への呼びかけは次のような言葉で始まっている。
「かつて存在した幸福な状態から深淵にはまりこんでしまったスラヴ人諸君,諸君らはついには長い怠慢な眠りから醒める時がやってくるであろう。そして,奴隷の鎖から解き放たれて,アドリア海カルパティア山脈,ドン河とモウダウ河に挟まれた美しい地域を再び諸君のものとしていくつしみ,そこで再び平和な労働を賛美する祝宴を開くことができるようになるであろう。」
さらに,「母国語,民族固有の伝統や文化,それにフォークロアといったものすべてが各民族のアイデンティティ(同一性)を形成する上で最も重要な要素となり,スラヴ民族にはその最高の運命が約束されている」と。・・・

ちなみにチェコだけではなく様々な国に対して何かしら助言を施しているようでした。面倒見がいいですね。

 

さて、ヘルダーがスラブ民族に対してナショナリズム的な呼びかけを行うと、彼の理論に触発されて、チェコ民族主義的な動きを見せるようになった、ということなのですが、彼のスラヴびいきはいったいどこから来るものなのでしょうか。何故彼がスラヴ民族に対して肯定的な呼びかけを行ったのかが気になります。

 

諫早(2007)*2によると、

ヘルダーがスラヴ人に関する情報を得た資料として

・『チェコ語の擁護』バルビーン

・『チェコ民族再生運動』ペルツル著

→以上の資料からヘルダーが影響を受け、彼自身の中でポジティブなスラヴ人像が形成される

→ヘルダー著『人類の歴史哲学考』(1784~91)の中でスラヴ人を賞揚、

同時にスラヴ人に対するドイツ人の迫害を非難

→ヘルダーの著作がスラヴ人の民族的覚醒に大きな影響を与えたのではないか

 

とのことでした。スラヴがお好きなようです。

 

各書籍の内容をここで書くとだいぶ長くなるので割愛しますが、

以上で私が持っていた2つの疑問は少し解消されたかなと思います。

>①何故1870年代後半になると、狭い「地理的境界」の外側からも作曲家が排出されるようになったのか

→「地理的境界」の外側での頭脳流出が落ち着き、自国で活動できるようになったから。また、チェコにおいては、ドイツの貴族らによる思いがけない支援があったことや、スラヴ民族を称揚するヘルダーの呼びかけや著作によって民族意識が高まり、独立へ動き始めたことによって、文化的な水準が上がったから。

 

>②民族主義とか言われているドヴォルザークらは、ちゃんとベートーヴェンの音楽を勉強して育っているが、音楽的な主要国(地理的境界の内側)であったドイツの音楽が周辺国に流入するきっかけは一体何だったのか

チェコが長い間ドイツ連邦やオーストリア帝国の境界内・圧政下に属していたため。

 

♫♫♫♫♫

第2章 序 の考察は以上といたします。

音楽史というより民族史的な疑問を持ってしまいましたが^^;

当たり前のように「民族意識が高揚したから」ということに対して、肯定だけしていては、民族主義的だと言われる作品を深く理解できないのではないかと考えます。ドヴォルザークが活躍できたのも、ヘルダーさんのおかげかもしれません。

また、今回はチェコに焦点を絞って調べてまいりましたが、他の国においてもそれぞれの事情があって、適切なタイミングで独自の音楽が花開いていったのだと思いますので、他の国に関しても随時調べてみます。

 

続きはまた次以降で書きます(^^)/

 

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